ヒーリングのプロセスを綴ったメール




ここに紹介する15通のメールは、ひとりの人がある時期にセッションの後で起きた様々なことを書き送ってきてくれたものです。
「本来の自己」へと還る、というヒーリングの深いプロセスはひとりひとり違っています。
しかし、観念的な言葉でなく実感としてここに書かれている様々な実際の体験は同じようなプロセスを進んでいるひとにたいへん参考になると思います。
本人はこの時期のメールを読み返して「まるで他人ごとのようです」というほど、いまではすっかり変容しています。



自分を解放していくために「家」に帰るために・・・私は今ここに居ます
-----6月30日  4回目のセッションの後で


6月13日のセッションを受けてから私の中に浮かび上がってきていることがあります。
私の中のネガティブな潜在意識、自分ではどうしようできない思考回路についてです。
私の中の「理由の無い、原因のない深い悲しみ、とてつもない喪失感」です。
今まで続けてきている私の思考や行動の基になっている潜在意識。過去についてです。
子供の頃から、理由も無いのにいつもとても悲しくて涙が出ました。
それはとてつもない疎外感や怒り嫉妬などの感情になって現れることがありました。
そうなると自分でもどうしようもなく苦しくなるので、それが現れることをものすごく恐れていました。
それは、もの心ついた時からいつも在りました。自分で自分を持て余していました。
子供の頃、どうしてそれが自分の中に在るのか不思議で仕方在りませんでした。
どうして、私はいつもこんなに悲しいのか、こんなに怒っているのかと不思議で仕方ありませんでした。心の中で自分を異常視していました。
自分の内省を繰り返し・・・、でもいつも自分の中に自分ではコントロール不可能な思考回路みたいなものが在ると言うところで行き止まりになって、その先には進めなくなりました。
このことが、私の今までの人生の全てを占めていました。
このことが、私の今までの人生の全ての苦悩でした。
私は、このただ一つのことの中で右往左往していました。
そして、アジズ、フーマンと出会いワークを始めて・・・。
そして、カタールのセッションと出会い。
6月13日のセッションを受けてからの日々で私の中の言い知れぬ悲しみと怒りは過去生から持ち運んでいるカルマからのもの、ネガティブな潜在意識からだと自分の中で確信と理解が起きてきました。
先日のセッションでしていただいたお腹の部分は去年の長野でのフーマンのリトリートで「カルマ切り」でフーマンが手を当ててくれた部分です。

今まで、自分がこの世に何故生まれてきたのか、何をしにきたのか、なりたいものは何もなく、したいことも何もなく、この世からの逃避ばかりに気をとられてました。
でも、2~3日前から、「ネガティブな潜在意識を開放していきたい」と強く望むようになりました。それは祈りでもあり希望でもあるようです。
そして今日はネガティブな潜在意識を開放し、カルマを超えて行くために生きているように感じました。
今までは、それに気付くために生きてきたのかもしれません。
いつも、ゴールへの途上みたい。
何だか生まれてきた意義、生きている意味が解けたように感じています。
とってもとってもシンプルでした。
なにもない。
自分を解放していくために家に帰るために・・・私は今ここに居ます。
理解がマルチビジョン?というか多角的というかそういう風にやってきて、それを表わし伝えたいと思うのですが、この平面的な言葉という表現では支離滅裂になってしまいすみません。





今まで胸の中に息を止めて、そのたびに溜め込んできたものを開放していきたい。それが出来るかもしれないと思いました。
-----10月23日 7回目のセッションの後で


セッションを受け、リトリート終了後2~3日はとても胸や背中、喉のつかえが軽くなりいい感じだったのですが、その後、胸や喉のつかえが酷くなり(8月のフーマンのリトリートへの参加が決まったころから始まっていたのですが)微熱が続き、胸や喉に粘液質のような老廃物が詰まっているようで息苦しく、何かが浮かび上がって出て行くような感じがします。息苦しさを毎日(病院でもらった)気管支拡張剤の吸入をしてしのいできたのですが今日は、どうにも息苦しく(喘息の発作)なり病院へ行って吸入と点滴をしてどうにかしのいでいます。感情的にも塞がれて行き場の無いような絶望感、深い悲しみが覆います。実生活では、何の問題も混乱も無いのですが。
今朝、深い気づきが起こるようにお願いしながら、フーマンにもらった「聖水」を天頂、額愛、そしてハートにぬり、そして聖水を水にたらして飲んでから、瞑想していて「今まで胸の中に息を止めて、そのたびに溜め込んできたもの」を開放していきたい。それが出来るかもしれないと思いました。
瞑想を終えると、発作が急にひどくなり、病院へ行ってこようと思いたち、病院へ行きました。
しかし、病院で酷い呼吸困難な状態は治まったものの、胸はまずまず重くなり、熱をもって熱くなっているように感じます。
これ以上病院にも行きたくないし、どうしたものだろうと..・・・・
今日は瞑想をするたびに、胸の悲しみに触れ涙が溢れ、また同時にプロセスを支えてくれているアジズ、フーマンの愛に触れ、そして精神的、肉体的に多くの助けをうけているカタールにふれ涙が溢れてきます。





それは、どこか遠くではなく、ココに在りました。
-----10月25日 7回目のセッションの後で


精神と同時に肉体も浄化されていく・・・、肉体の細胞ひとつひとつに・・・、意識と肉体・・・・。
不思議です。
でも、肉体の状態が本当に良くなっていく、居やすくなっていく、肉体との分裂感が緩和されていく。
私には夢のようなことです。本当にうれしいことです。精神の浮浪者がやっと自分の居るところに出会ったような感じです。それは、どこか遠くではなく、ココに在りました。
物心ついたころから。息苦しく邪魔だと思い続けてきた肉体が、実は私の住処だったんですね。
肉体の状態、肉体に起こることについての「指南役」のカタールに出会えたお陰で、起こることを恐れたり、拒否、否定せずに、受け入れることを知り、前に進めるようになりました。41年もの間浮浪していました。






自分が喜びに溢れ幸福に在るのを恐れることなど、あるのでしょうか?
-----10月27日 7回目のセッションの後で



瞑想をしていると、深いところに喜びが封印されているように感じました。喜びがあふれ出てくろように感じ、そこから逃げようとします。
溜め込んでいるもの、押し殺しているものは「怒り、悲しみ、恨み」などネガティブな、物ばかりだと思い込んでいたのですが。
喜びも封印してしまったり、喜びに閉じてしまうこともあるのでしょうか?
何だか、自分が自分の真の喜びに対して閉じてしまっているように感じました。
自分のネガティブなことには何処までもフォーカスするのに、自分の喜びには無意識に無視し取り合おうとしていない自分があるように感じました。
何故か、私は自分の喜びを恐れます。
何故か、私は自ら自分をネガティブな状況に置くことで、周りとのバランスをとっているように感じます。
自分が喜びに溢れ幸福に在るのを恐れることなど、あるのでしょうか?
私は、人の妬みや嫉妬を異常に恐れてきましたが・・・。
そのことに、自分で振り回されて来ましたが・・・。
理由のわからない、自分の中の恐怖や行動パターンに自ら振り回され、それをどうすることも出来ず繰り返してきましたが。
今、私の表面は不安になっています。
マインドが不安になっているのでしょうか?
やはり、起きてくること、湧いてくる感情に取り合うことなく、プレゼンスにとどまり、受け入れていればよいのでしょうか?
自分であるのにもかかわらず、自分の内側で、自分でも予想していないことが起こっていて、変な感じです。





ほんの少しずつ、少しずつの微細な変化ですが。
「ひとりあること」を体感し、理解に入って行きます。
-----11月13日 8回目のセッションの後で


10月30日のセッションを受けてから肉体の浄化作用が続いています。
それが、少し変化してきました。
目の強いかゆみが軽い痛み(ヒリヒリ感、渇き)になり、目の表面に涙が浮かんできます。それと同時に悲しみが出てくることもあります。私の意思とは無関係に悲しみが浮かび上がりリリースされる感じです。
セッションを受けて暫くの間は、とてもよく食べ自分でも驚くほどでしたが、先週あたりから、食べたものを吐くようになりました。食事をしていて急に吐き気がきます。先週末にフルーツとジュースで過ごした時は大丈夫だったのですが。
頭は圧力がかかった様な感じに痛みます。
夜寝ている間は毎晩夢を見ていて、夢の中での自分のその時々の心の動きを感じています。目が覚めたときは、その夢を体験していたリアル間から寝ていた感じがありません。
顔の眉間がとても痒く、口の中が熱く、唇がヒリヒリと炎症し、あごが赤くただれたようになっています。
顔も、不思議なのですが、セッションの後、色々な顔に変化します。顔に熱を持ったように腫れぼったい感じがし痒いです。
時々、とてもがっかりするような変な顔になります。また、あるときは、とてもすっきりとした顔にもなります。
急におなかが痛くなることが続いていましたが、昨日から、何の要因も無いのに便通がよくなり、1日に何回も出るようになりました。
行動では、自分でも自分でもしたことのないようなミスが起こります。
物を溢れさせたり、よくこぼします。今朝も調味料をキッチン中に飛び散らせ、自分もタレまみれになりました。床も壁も服もよく汚します。
物もよく壊れ、食器もよくわります。
自分の意思が無いところに自分が居るような感じです。
食べることでさえ、自分の意思の無いところに居るようです。
自分が表面でしていることと、自分が違う所に在るような違和感も在ります。
これも浄化の流れでしょうか?
私の表面で起きていることを、自分の中で静かに見ている感じもします。
それとも、私は何か間違っているのでしょうか?
何か内側での微妙な変化も感じます。
洞察も深まり理解も深まっていきます。
ほんの少しずつ、少しずつの微細な変化ですが。
「ひとりあること」を体感し、理解に入って行きます。その中の自由さに触れ、感じるようになりました。
何故か、内側では喜びが溢れています。
でも、内側と外側とのギャップでとてもイライラしたりします。
プロセスを信頼している(つもり?)なのですが、誰か信頼できる方に、自分に起きていることをシェアしたくなりメールしてしまいました。
すいません。自分のことばかり訴えてしまい。
でも、誰かに聞いて欲しくなってしまいました。
こういう自分を情けない人間だ、嫌だ、と感じている部分もあります。
すべて、どうでも良いこととも感じます。
こういうシェアも、マインドの中で起きている事なのでしょうか?





とてもリラックスしたものが私に入り込んできます。それにつながると、胸が熱くなり涙がでます。
-----12月28日 9回目のセッションの後で


カタールが予告してくれていたように、あの後、2~3日頭と背中に痛みが現れ参りました。それと倦怠感は首と肩に集中しています。
相変わらず喉や胸の詰まりが強くなりましたが、今回は痛みがあちこちに移りながら出ます。
手首や足首、ふくらはぎ、ひざ、足の付け根などは断続的に痛みを感じますが、時々局所的(お腹のまわりが多い)につれるようにきりきりと痛み怖くなることもあります。
急に眠くなり、何時間も眠り続けたりします。

時々、とてもリラックスしたものが私に入り込んできます。それにつながると、胸が熱くなり涙がでます。そして自分がとてもいとおしく感じ、同時に私の2人の息子たちが人間としてとてもいとおしく感じます。
そして、私の中が(マインドの一部かも)溶解してしまうように、すべての価値がよくわからなくなっていきます。物質的なことの興味が薄れ、食べ物、着るもの、家の中、買い物、などなど、に興味がわかず(意識が向かわず)、ただぼーっとしている自分だけになってしまします。
これも、カタールがいつも言ってくれているプロセスで過ぎていくものだと思いますが、やはりマインドがどこかで焦っているような感じがあります。
そのうちに自分の中が整理され統合されるとうれしいです。
そのためにも、無駄な抵抗をせずにカタールが教えてくれた『味わって』いこうと思いますが・・・

今一番辛いのは、『息子たちがいとおしい』と感じたときの胸の痛みです。罪悪感のような、愛のような、私にとってはとても痛い痛みです。わざとその罪悪感に押しつぶされ死んでしまいたいような感じになります。
そこに引きずり込まれたくなってしまいます。
息子たちと一緒に暮らすのも後数年でしょうが、お互いにしっかりと自立し、愛を持って別れていきたいと(独立)思います。
息子たちを自立させ、私も一人自由になっていくように感じます。
がんばります。






「受け入れる」ということを知る道のなかにいるようです。そう感じています。
-----5月31日 12回目のセッションの後で


私は、春のフーマンのリトリートを終えて少し経ったころから、「受け入れる」ということを知る道のなかにいるようです。そう感じています。
カタールがセッションの時よく言ってくれてた、「受け入れるということだ」ということを、そのときはいつもピンとこないでいたのですが、今は私の中にあるように感じます。
最初に私が感じられたというか知った「受け入れる」という感覚は、プレゼンスをハートの中に感じるような、ハートが全身に広がるような、私がひとつになるような感じでした。私が今まで言葉から感じられていた(思いこんでいた)「受け入れる」とは、別の世界でした。

フーマンの2デーズリトリートの時にうけたカタールのセッションから始まっていたのだと思います。カタールがこのセッションがターニングポイントかもしれない」と言っていました。そのときはピンと来ていなかったのですが、こうやってそのプロセスのなかにあってやっと気づいてきました。

前回のセッションの後、しばらくは自分でプロセスをやっていくんだなと感じ、その中に居ましたが、最近そろそろカタールの手助けが必要なところまでやって来これたと感じてきました。
日々こつこつと向かい合っていたら、いつのまにか少し道を進んでいたようです。
言いかえれば、やっとカタールにサポートを受けられる地点にやってこられたということです。





自分でが自分でないような、「えっ、私は誰?」という感じです。
-----7月18日 13回目のセッションの後で

セッションの次の日は、天頂に何回も至福(無条件の愛のような感じ)が降りて来て私を包んだり、突然、感謝の念のようなものがあふれだし、涙がこぼれひとしきりワンワン泣いていたりしました。

昨日頃から、自分の外側がイライラしています。
以前は外側に振り回され、マインドの命令どおり動いて、それに慣れきっていたようです。
でも、今は、マインドが色々浮かんできて指示を出すのですが、内側はいっこうにそれに応じようとしません。

家事も今までのように回りません。頭のとおりに事が進みません。でもいつのまにかたづいていたりもします。

自分でが自分でないような、
「えっ、私は誰?」という感じです。

とにかく、自分が頭で考えているようには動きません。

内側は空っぽで、広がって、寛いでいる感じですが、外側がイライラして吐き気までします。

食べ物も、いったい自分は」何が食べたいのか浮かんでこず、何を食べてもおいしいと感じず、自分の今までの感覚がどこかへ行ってしまった感じです。

自分のきた衣服に対する感覚もわからなくなってしまい、部屋には自分の出した洋服やものがが散乱しています。でもその散乱もどうでもよく感じてしまいます。

自分の中が止まったようにゆっくりしか動きません。

こどものころは、のろまのろまと言われ人からずれていました。みんながしているように私はできませでした。
そして私は、みんなのようになりたいと強く望んで、必死で周りの人をお手本にし、学習しました。

そして、就職する頃には、いつも先に頭の中で考え、失敗を避け、争いを避け、混乱も起こさず、用意周到かつ合理的に動くようになっていて、それが自分で自分のイメージになっていました。
それが、そうすることにより、自分が周りに認められ、必要とされてると感じられるようになっていて、そうすることによって自分が分裂し苦しくなるのに、そう行動することに執着して手放せなくなっていました。
でも、それが自分が傷つかないですむ、自分を守る手段だったのだとも思います。

頭がうまく働かずよくやくここまで書きましたが、もう限界になってしました。
尻切れとんぼのようで変な終わり方ですが失礼します。





私の周りの空気が変わったかのように私を包む空気がとてもクリアに感じられます。
-----9月3日 13回目のセッションの後で


7月15日のセッション以来、何の意味もなく満ちた足りた感じと、深い淵のような悲しみの中にいます。
いつも光に包まれているように感じます。それと同時にものすごい不安感があります。
寝ていても起きていても、何かに追い立てられるような、何かしなくちゃ、あれもこれもしなくちゃという強迫感に包まれ、それと同時に何も無く何もしないのに祝福に包まれている感覚の中にもいます。
でも、思えば私は子供の頃からこの感覚の中に居ました。そしてそれが憂鬱の主だったように思いす。
そのことを考え分析しようとする興味や意欲も無く、ただその中に居ます。
頭と体が連動せず、異物の中にまた異物の自分が居るようなとても変な感じです。
体の中に熱を持っているように、体の中が熱く、その熱いものが体の中を巡る感覚はとても不快で横になっていても、自然と体を動かしていてもがいています。
お腹と首に痛みと違和感を感じます。左胸は奥の方でシクシクと痛みます。

しかし、前回のセッション以来、私の周りの空気が変わったかのように私を包む空気がとてもクリアに感じられます。
それと同時に外出したときは、ただ道を歩いているだけで、体の周りにビリビリ、ガチャガチャしたものを感じうまく歩けません。人ごみの中やすれ違う人もとても不快に感じます。

瞑想は毎日朝晩続けていますが、最近とてもその必要性を感じ自分の内側に行ってみたくなります。ただそこに居たいと思います。

私が私で無くなって行っているような感じがします。
自分が善悪の判断をつけていたものがどうでもよくなって行きます。

唯一気になって離れなかった、2人の息子の行動、将来などなどもあまり意味の無いことのように感じてきています。
唯一の執着の砦も消滅してしまいそうです。

すでに私の中に興味あることは何も無いのですが、本当に何も無くなってしまいそうで、息も詰まるような息も止まるような恐怖感があります。

ただただ内側で休んで居たいと感します。この騒々しく慌しく混乱の渦中の世間で日常生活の中で、自分の内側に寛いで居たいと感じ、自分の願いが、本当にそれだけになって行くのに不安を感じます。





今朝、目が覚めると、なんだかすっきりし、心が止まっているような感じです。
-----10月14日 14回目のセッションを前に


春のフーマンのリトリート以来、「受け入れる~許す~感謝」と感じてきました。
が、夏の終わり頃から、私の中にある「罪悪感」を手放したいと強く感じるようになり、祈りました。
今まで、いつも共にあった「罪悪感→自己否定→絶望感→孤独→憂鬱状態」、それは自分が逃げ込む所であり、1人で休めるところでもあり、自分を感じるところでした。私にとって、それだけは手放せないような麻薬のようなものだったと思います。
でも、もういらないと感じ、そこから出たいと衝撃のように強く感じました。
この一ヶ月の間、その今まで感じ、通ってきた憂鬱感と絶望感に覆われていました。
夜寝ていても、頭はうごいているような、思考が働いているみたい感じで、朝起きるよ頭の中がとても疲れていました。反対に起きている時は、ぼーっと無気力、無関心状態が続き、もう精神的にも体力的にもおかしくなってしまいそうでした。ここ一週間が1番きつかったです。
しかし、今朝、目が覚めると、なんだかすっきりし、心が止まっているような感じです。
いまは、罪悪感を手放したいといううごめく様な強い思いも無くなってしまった様な感じです。
私の体は、マシュマロのように膨らんだ感じです。特に顔とお腹がまん丸にふくらんでいる感じがします。背中と右の腰には何か重くて厚くて硬いものが張り付いているように感じ、頭の中も外も痺れているように感じます。足元はしっかり地面に着き根が生えている感じなのに体は軽くて浮かび上がってしまうような感じで不快な感じです。





厚い壁にひびが入り光が差し込んでくるようなものすごい喜びです。
-----10月18日 14回目のセッションの後で

先日は、セッションをしていただき有難うございました。
お約束のように、”ありがたい”浄化が起こっているようです。
当日、帰宅した途端、感情が噴出し、怒り、声をあげてワンワン泣き出し、自分でも困惑しました。でも、その後は決まって、何かが消えてすっきりしています。
感情の浄化が起こっているようです。それに伴い肉体の部分に痛みが出るようです。
(そういえば、以前アジズが私のマインドはとても強靭で、その原因は感情体から来ていると言っていました。)
私は自分の感情を恐れ、それが噴出すのが恐怖でした。でもそうして押さえ込むので、度々それが小爆発を繰り返し、雪だるま式にその恐怖を増長していました。
もし、そこに浄化が起こり始めたのならばとても嬉しいです。厚い壁にひびが入り光が差し込んでくるようなものすごい喜びです。
鼻や喉、頭痛、だるさに加え、今回は痛みが出ます。
それから、うとうとと一日中り眠ります。
思いもよらぬところが、突然痛みが来ては去っていきます。
足、腰、下腹、みぞおち等々・・・。
それから、一番不快な体の周りのビリビリ感。
それから、ハートが自分の存在を教えるかのように熱を帯びたように熱く感じ、ジンジンと痺れ呼吸しているように感じます。
カタールの教えてくれたように、その中にとどまってゆらゆらしていると、痛みの出ているところで何かが解けて行くような、滞りがほどけて行くように感じます。ありがたいと感じます。
浄化にも流れがあるようです。今まではその不快さに不安になったり動揺して、騒いでしまいましたが、今回はこの流れを信頼して、出来るだけその中でリラックスしていようと思います。それが今の私のチャレンジのような気がします。
受け入れる、許す、感謝、嫉妬、怒りなどと、色々言葉はありますが、どうやら皆ひとつのようです。
悪い事などないようです、そして良いこともないようです。そうであるだけのようです。
全て愛で出来ているようです。
私はその愛を学びたくて生まれてきたようです。そしてそれを生きるため居るようです。そしてそれをシェアしたいようです。どうやらそのことしかないようです。
本当にシンプルすぎきて、ストレートすぎて、その事を信じられず、色々なものを探そうとしていました。
もう、探すのは終わりです。
何のとり得もなく、能力もなく、自分の中に何にもなくても、嘆くのは終わりです。
自分に嫌悪する事も終わりです。
私はやっと、ここに居る決心をしたようです。ここに来た意味を感じられたのですから。
以前アジズに「ここに居るということがあなたの今生の最大のチャレンジだ」と言われ、その時はとても嫌な感じがしましたが、今は、ちょっとワクワクした感じです。







目を閉じると自分が透明で何も無いような感じがします。
-----11月10日 15回目のセッションを前に


セッション以後、浄化が起こるごとに私の中に空が広がっていきました。
頭の中も、ハートの中も、お腹の中も空っぽで何も無い感じで、目を閉じると自分が透明で何も無いような感じがします。
その空っぽさは、喜びも悲しみも全部あるような満たされた感じですが、同時に懐かしく切ない感じと、子供の頃感じていた疎外感もあります。
たまらなくなりそこからにげだしたくなったり、気が狂いそうなぐらい切なくなったり、時々死んでしまいたいと感じました。
それでも空っぽさは、どんどん広がり自分が融け出しているような感じです。太陽が融けるように。
自分の境界が融けて消滅していくような微妙な感じです。




悲しみが光のように透明で美しいと感じるのです。
-----11月15日 15回目のセッションの後で

今回のセッションはとても静かでしたが、深いところで強烈で強力な光のような浄化が起こったような感じです。
私の中が変わってしまったような感じです。今までと同じように行動しようとすると、頭をかかえて「ギャ-」とわめきたくなるくらい違和感があり不快です。行動の”もとになるもの”自体が無くなってしまったような感じです。
でも、「ぎゃー」とわめいて混乱の中に行かず、目を閉じて静かにそこに居ます。
だから、祭壇の前で静かに目を閉じて座っていることが多いです。
「悲しみ」とは、いったい何でしょう?
昨日あたりから、強い悲しみに包まれていました。私の中だけでなく、空気で繋がっている全ての悲しみとハートが繋がってしまったみたいになりました。上手くいえないけど、個人的な悲しみでなく・・・。
今朝は、私は美しい光のようなものに包まれています。でもそれは悲しみなのです。
悲しみが光のように透明で美しいと感じるのです。
私は、今まで何故、この美しい光を受け容れてこなかったのだろう?と思いました。

この悲しみは「女性の悲しみ」のように感じます。
私の肩に重荷のように圧し掛かっていたものでです。でも美しい光なのです。
まだまだプロセスの途中だと思いますが、色々と変化します。

思考を使おうとすると「ぎゃー」とわめきたくなるような違和感と不快がやってきます。だから、目を閉じて静かに止まります。
足の裏はしっかりと地に付き2本の足で立っています。頭は上に吸い上げられて行きます。真ん中の太陽神経層のあたりはまだ空洞です。そのあたりが腫れぼったくずっと痛いです。
.前回と同じように顔の表面がとても痒く、喉と口の中がヒリヒリと焼けるような感じです。
祭壇の前で、目を閉じて静かに座ります。何も起こらず、何も変わりませんが、ただ静かに座っています。
お腹が、腫れぼったく痛いです。
顔が痒いです。
喉と口の中が焼け付いています。





私の内側で新生な何かが始ったような気がします。
-----11月16日 15回目のセッションの後


カタールのセッションでのアプローチを通して、私の内側に多くのリリースがもたらされています。
体から始まったと言うのが自分らしくなくとても不思議です。
無意識のうちに体を遠ざけ、切り離そうとし続け、否定し続けていた私が、いつの間にか体を通して本当の解放が起こり始めているなんて、不思議です。
ずーと40何年間、頭の中でぐるぐると堂々巡りを続けてきて、もううんざりしていたところ、アジズに出会いカタールに出会い、フーマンに出会い。
カタールのセッションが私の解放へのターニングポイントです。
私は、常に自分を固くし緊張させています。自分でもわからないのですが、無意識のうちにそう作動します。
そのために、自分を消耗させます。自分をうんざりさせます。
セッションの時も、何かを保っていなければとリラックスしていない部分があります。何か水際で何かにしがみついている感じがあります。
私はその緊張を解きたくなりました。
マインドの指令でロボットのように生きているのも疲れました。
恐ろしくて、不安で絶対に手放したくないと思っていた緊張をもういらないと感じました。手放す恐怖よりもわくわく感がわいてきました。
何が起こるのか、何が始まるのか、見当もつきません。私の内側で新生な何かが始ったような気がします。
自分の知らない、全く別の、何かを感じます。





違う世界に出たような感じです。なんだか目が覚めていく感じです。本当の頭が冴えていく感じです。
-----12月5日 16回目のセッションを前に


前回のセッション以来、私は高い波動の中に居るような感じです。
大小多くの変化が起きているように思います。
セッションの時起きたのか、突然起きたのか、徐々に起きていたのか分かりませんが、内側で急激な変化が起きたようです。
行動が一切といっていいほど、出来なくなりました。今まで通りの行動、普通に無意識にやっていたこと、頭で考えてすること、計画を立てること、などなど。
だから、頭に居るとヒステリーを起こしたり、泣き喚いたり、当り散らしたりと混乱しパニックになりそうでした。でも、自分のスペースにいることはとても心地良く、いつの間にか必要な事は済んで行きました。
自分が在ること、自分の存在はより強く感じるのですが、この世間、日常の中に居るのが不思議で・・・。
家の周りの道を歩いたり、買い物に行くのがとても苦痛で恐怖にもなっていました。
仕事に行くのも前の日からとても不安になるのですが、いざ行くととてもスムースに進み楽しく充実した時間を過ごすのです。
仕事で外出する以外はほとんど家の中にこもりボーっとしていました。
内側の変化がだんだん外側に広がっていく過程をリトリートのように完全に世間から守られた、そして限られて環境で過ごすはずというか過ごしたいのですが、この世間の中の日常の中でリトリートで起こっていることを体験しているような感じで、そういう意味ではとてもきつかったです。
変化のスピードがとても速まっているように感じます。
ここ3回続けてカタールのセッションの予約が取れている事は、とてもラッキーな事だと、そして意味のあることだと思います。
1人で越えるのはとても困難です。

あるヒーラーが誕生日の3ヶ月前にソウルバースディを向かえ、肉体の前に魂の誕生日を向かえこの3ヶ月間でそれを理解し肉体に下ろして行くというようなことを言っていましたが、私も2月11日の誕生日を前に11月11日にソウルバースディを向かえその期間をカタールのセッションとともに送れると言うことは、とてもありがたいことと同時にとても重要なことだと思います。
この期間にスディープ・エレスチャルのクリスタルとも出会い、またニシャントのホワイトセージも昨日、無事に届きサポート隊も勢ぞろいといった感じです。
サポート隊がカタールの知り合いの方達というのも不思議です。カタールが導いてくれているような感じです。ありがとう。

私はこの1ヶ月間、知らない領域に入り、進んでいっているような感じです。
不安や不快の中にも、安らぎと暖かさと光があります。不思議なところです。
今までは眠りこけていたような、あるネガティブな一部分に閉じこもっていたような、またそこに自分を押し込めていたように感じます。違う世界に出たような感じです。なんだか目が覚めていく感じです。本当の頭が冴えていく感じです。
そこにただとどまり静かに在ることはとても心地良いのですが、その状態で外に出る事はとても不安で不快なことです。
でもこの1ヶ月間で、その状態で家族と居ることにはだいぶ慣れ、違和感がなくなりました。





何か自分がひょうひょうとしてとても楽なんです。
-----1月15日 17回目のセッションの後で


昨日はありがとうございまいた。
昨日のことなのに、もうずっと前のことのようです。

私にとってとても画期的なことが起こったような感じです。
少し休んでから帰ろうと思って横になったのですが、私の中が何かとても快活で自然の中を歩きたいような気がしてそのまま歩いて駅まで行きました。
帰り道から、私の体は快活になりました。家に帰っても寝るまで家事をして動き回り、今日も出かけましたが私の体は元気です。突然、私の体が消耗しなくなったような感じです。

下腹と足の付け根が柔らかくなってとても気持ちが良いです。本当にお腹の下のほうが気持ち良いです。なんだか体がとても気持ちがいいのです。
体が気持ち良い状態なんて、今までに経験した事がありません。体と心が静かだけどウキウキしている感じです。私の中から億劫さも抜けてしまったようです。

何か自分がひょうひょうとしてとても楽なんです。憂鬱さが消えてしまったみたいです。
不思議だけど、憂鬱さを思い出すことができない。

言いようの無い不安がなくなってしまったみたいです。
だから、これからどんな浄化やプロセスが始まるかわからないけれど、何故か「大丈夫」って感じがします。
どんなことが起きてもいいです。楽みがあります。

いつも不思議なセッション。
ありがとうございます。





今、新しい在り方、生き方の実習期間のように感じます。
-----2月6日 18回目のセッションの前に


私は今、自分の中が刷新されているような感じです。あるいは、もう既に刷新されていて、それを外側に現し始めているのかもしれません。
私のする事全ての「仕方」が違うように感じます。

物心ついて生きづらいと感じはじめた頃から、どうにかして自分が社会に居易くなるよう、自分が安全であるようにと自分を防御し、自分を社会に沿わせようとしてきた
生き方、それだけに徹してし来た自分が滑稽にも哀れにも感じ、私は何していたんだろう?と不思議に思いました。
ああ、もうする必要はなくなったなーって、ほのぼのとした気持ちで思いました。
考え、計画し、予測し、予想し、安全網を張り巡らせた行動をもう手放しても大丈夫だなと感じました。
前回のセッション以来、何の憶測も予想もなく、ただ瞬間、瞬間に感応して行動が生まれるという小さな体験を何回も繰り返し、その中で理解して行ったように思います。
しかし、瞬間瞬間に感応していく生き方と、従来の記憶や思考を主人に行動する生き方との間に混乱も起こります。
既に従来どおりの対応は出来なくなっているのに、そこからは指令が出し続けられているようで、それが強まると吐き気とイライラ感に襲われ私の流れは停止してしまいます。
しかし、そんな事にめげずにプ静かにレゼンスにとどまっていると、新鮮なものが生まれまた私は流れ始められます。
物事を深刻に捉えることが出来なくなり、自分を固まらせる事が出来なくなり絶えず自分が静かに漂っていて瞬間のものを受け入れ感応していることは、私にとって快く、固くなり枯れ果てていたものが蘇っていくような懐かしさを感じます。
と同時に、(人から見て)自分が軽薄でいい加減なようにも感じ、憂鬱さが被いかかってきます。

今、新しい在り方、生き方の実習期間のように感じます。
自分の本質的のようなものにも感じます。

自分はダメだ。自分には価値が無いと自己否定し、それ自体が自分であるかのように感じていましたが、そうしていた自分も不思議に感ます。
自分に価値があってもなくても、何の意味は無く、それに何に対しての価値だったのだろうかとそれも分からなくなりました。

物質的なことが直ぐに叶ってしまったり、トラブルが予想される事がすんなりと終ってしまったりと不思議なことが起こります。何故か目に見えない大きな力を感じ、感謝の心で溢れます。
と同時に周りの人との意識のギャップをよりいっそう強く感じることがあります。
職場の同僚とも一緒にいながらとっても距離を感じます。憂鬱さの中に入って行きそうになります。
この距離ということは子供の頃感じていた孤独感と同じ感覚です。両親、友達、先生・・・、自分の周りの全ての人に感じていました。
今まではその感覚を味わう事が恐怖でそれを避けるために策略をめぐらせてきました。人を責めたり嘆いたり、自分を責めたり嘆いたり、蔑んだりしてきましたが、今はどっちが良い悪い、進んでる遅れている、ということではなく、ただそう言うことなんだなと感じます。

瞬間瞬間を受け入れ感応していくこと。
そこから何か新鮮で懐かしい新しい世界が広がっているように感じます。
よく、「喜んで受け容れる」とか何とか言いますが、喜ぶも喜ばないもなく、そんな間髪も入らない純粋な瞬間瞬間です。無条件の無垢な瞬間です。その瞬間自体が自分のような、境界が無いんです。

肉体的には、大嫌いだった自分の体が、なんだか体が在ることが嬉しいような感覚に変わりました。
何かが解除されるような突発的な痛みは色んなところで起こりますが、体が自然体に戻っていく祝砲のようにも感じられます。
足首に重く厚い鉄のような足枷を巻かれているような感じです。今日はそれがふくらはぎにも延びていき痛みを感じます。膝から下の足が痺れ膨張しそれが腿に上り腰がキーンとし重く痛いです。

ココのところずっと、脳天は痺れて痛く、透明なパイプが刺さり何かと繋がっている感じです。
座って瞑想していると、お腹に落ち着いているようで何にも無くて楽です。
お腹の中のエネルギーが目を覚まし活性化しているような感じです。コレは初めての感覚です。今まで味わったことがありません。この感覚とても好きです。お腹が活性化されてせいでしょうか、呼吸が楽になり、特に息を吐くのが楽になりとても心地良くなりました。今までは息を吐いても詰まってしまい、胸で固まって止まってしまいました。

自分がナチュラルになっていくことは本当に嬉しい事ですね。

0 件のコメント:

コメントを投稿